第2回学術大会

日時:1994年6月18日(土)、19日(日)
場所:大正大学

研究発表要旨

第一部会(司会:池上良正)

繁田信一(東北大学大学院)
「医師・験者・陰陽師−平安貴族の「医療」と「呪術」−」

平安貴族の治療の場面には医師(くすし)・験者(げんざ)・陰陽師(おんみょうじ)が頻繁に登場するが、中古の貴族社会では、適切な治療が為されるためには三者のいずれもが必要であった。そして、本報告は、医師・験者・陰陽師について、その治療に関わる職能者としてのあり方を把握することを目的とし、中古の記録類から以下の事実を明らかにする予定である。

 すなわち、中古の貴族社会では、医師は平安貴族の所謂「医療」を以て、験者と陰陽師とは平安貴族の所謂「呪術」を以て、その各々が治療者としての役割を果たしていた。そして、平安貴族の所謂「呪術」を行う験者や陰陽師は、しばしば、医師の行う平安貴族の所謂「医療」の有効性および安全性を保障・保証する役割をも果たしていたのである。

 また、中古の貴族社会における治療に関わる職能者の特徴を把握するため、本報告では、上述の考察の結果を文化人類学・医療人類学の成果と対比することをも試みたい。

今泉寿明(香川医大医学心理学)
「〈こっくりさん〉の社会的背景と影響−精神医学の視点から−」

 〈こっくりさん〉とは、文字を記した紙上の硬貨が霊の作用によって動いて託宣を伝えるという占い遊びである。その実体は、現代において最も体験頻度の高い世俗化・遊戯化したシャ−マニズムとみなしうるが、これに対して民族学や宗教学の関心は乏しく、本格的研究は未だなされていない。演者は〈こっくりさん〉研究の端緒として、1992年に愛知、静岡、徳島、沖縄に居住する20〜60歳代の成人を対象とした実態調査を実施した。留置した質問票2000の回収率は92.4%、有効回答率は81.8%(1636人)である。解析結果は以下のように要約される。(1)未成年者の集団遊戯として昭和初期から現代まで伝承されている。(2)流行の盛衰は、安定伝承期(昭和初期〜終戦)、低迷期(戦後〜高度経済成長期)、隆盛期(高度経済成長以降〜)に区分できる。(3)体験は女性にやや多いが、知識に性差はない。(4)シャ−マニズム浸透に関連する地域差(沖縄/愛知・静岡の差)はない。

芦田徹郎(熊本大学)
「宗教は怖い!?−熊本におけるオウム真理教の衝撃−」

 1990年5月に始まるオウム真理教の熊本県波野村への進出は、同村はいうまでもなく、近辺の町村からひいては熊本県全域ならびにその周辺に、パニックといっていいほどに大きな衝撃をもたらした。現在、当初のショックは表面的に鎮静化したとはいえ、もちろん同教団に対する熊本県民一般の疑惑と困惑とが払拭されたわけでは全くない。この一連の「オウム騒動」の過程で、波野村はもとより、熊本の行政、議会、一般住民、人権擁護団体、弁護士会、マスコミ、研究者等の大勢が示した反応には、おしなべて「恐怖」の感情が共有されているようにみえ、きわめて興味深いものであった。強力な(ようにみえる)「異教徒」が駆り立てた「恐怖」の実態を検証しつつ、必ずしも祝福されない宗教の特性の一端に迫りたい。近年、国の内外で頻発している宗教をめぐるトラブルを解明する(なかなか「解消」とはいかない)手がかりがいくらかでも得られれば幸いである。

第2部会(司会:吉原和男)

「寺田勇文(上智大学アジア文化研究所)
「第2次世界大戦下における日本の対比宗教政策:キリスト教を中心として」

 陸軍参謀本部は1941年(昭和16年)8月の時点で、カトリック教会(日本天主公教団)指導部に対し、開戦時にフィリピンに派遣する宗教宣撫班員の人選を依頼していた。同じ頃、日本基督教団関係者に対しても同様の依頼があった。11月下旬には、日本人司祭、プロテスタント牧師、神学生、信者など20数名が軍に徴用された。開戦後、宗教宣撫班は第14軍(渡集団)本隊とともに、12月下旬にルソン島リンガエン湾に敵前上陸、42年1月初めにマニラ入城後、同年末まで1年間、フィリピン側のキリスト教界指導者と接触、宣撫工作を行った。

 この発表では、報告者が近年発掘した一次史料および日本、フィリピン、アメリカで実施した関係者へのインタビュ−調査をもとに、比島宗教宣撫班の活動と日本占領下フィリピンにおける日本の対比キリスト教政策について検討する。

櫻井義秀(北海道大学文学部)
「タイ農村社会の宗教構造と社会変動」

 S.J.Tambiahが明らかにした人生周期の節目に実施される魂の強化儀礼であるクワン儀礼と仏教儀礼に、家族と村落レベルの隣接世代間の扶養−報恩の関係が反映されているとの指摘や、功徳の民衆的理解である福田思想、功徳を共有しているという概念が既存の社会関係を強化するだけでなく、新しい社会関係をも創出しうるとする林行夫に指摘された村落・親族・世帯の共同性は、生活世界と労働領域の変動の中で、もはやタイ農村社会の自明の前提ではなくなっている。フロンティアの消滅に伴う相続慣行の変化の予測、互酬的労働交換から経済的労働交換への変化、農民の出稼の経験、消費社会の文化の浸透等のファクタ−が、どのような宗教の存立の可能性をもたらしているか、宗教意識・実践の実態調査デ−タをもとに述べてみたい。本研究は、都市中間層の瞑想型個人宗教の登場、集合的儀礼の宗教から内心倫理化志向の宗教への変化という現象への架橋的役割を目指す。

熊田一雄(近畿大学)
「豊かさと等しさと輪廻転生」

 1970年代以降、特に80年代以降の日本社会においては、新霊性運動の一部及びそれに影響を受けた新々宗教の一部(ex. GLA系諸教団)で説かれる、(1) 人間は永遠の輪廻の中で(2) 魂を向上させるという使命をもって(3) 自分で環境を選択して転生する、という従来とは異質な「選択輪廻」観が、若い世代を中心に急速に人々の間に浸透しつつある。この発表では、こうした「選択輪廻」観が、現代日本における「豊かさと等しさ」が個人の孤立化・急速な社会変化・可能性の拡大・不幸の個別化・平等化の逆説・透明化の逆説等を介して社会に氾濫させる「欲望の異常肥大化」や「ルサンチマン」に対する「解毒剤」として機能していることを実証するとともに、(1) その歴史的背景と先進工業国全域への拡がり(2) 予想される様々な「副作用」についての仮説を提示する。

シンポジウム概要 「宗教と民族・ナショナリズム」

問題提起 中野毅(創価大学)

 旧ソ連・東欧圏の崩壊に象徴的に現れたように、現代世界は新たな秩序の再編期を迎えた。第二次大戦後の国際秩序は、世俗主義・政教分離主義を前提とした近代的国民国家を単位とし、その東西ブロックの形成による力の均衡によって維持されてきた。発展途上国も「近代的な」国民国家を理想としつつ、その秩序の中に組み込まれてきたのである。

 しかし、昨今の国際秩序の崩壊は旧来の近代啓蒙主義に基づく国民国家の理想と体制の脆弱性、さらには虚構性を露呈させることになった。その要因は、もちろん旧ソ連邦の崩壊という政治的事件のみでなく、経済、文化、人的交流におけるグローバル化の進展が大きく働いたことはいうまでもない。いずれにせよ、その結果、多様な国民または市民を新らたに統合する理念やイデオロギーを模索する時代に再び入った。伝統への回帰、歴史的記憶への懐旧がはじまり、現在の民族主義、人種主義、そして様々なファンダメンタリズムの復活、復興をひきおこしている。

 カトリック、正教会、イスラムと各民族が結合して敵対的な民族主義が勃興し、過去の民族的復讐を相互に叫びあっている旧ユーゴの事態は、最も痛ましい姿である。このように、宗教が再びナショナリズムの源泉として利用されたり、その結果として、社会の主流派的宗教伝統と異なる新宗教運動が抑圧・排斥される事態もみられる。

 近年の、こうした宗教とナショナリズムの新たな結合関係に焦点を当て、宗教、民族、ナショナリズムの諸概念を整理しながら、近年の宗教とナショナリズムの結合の諸形態、諸位相を明らかにしていくことが求められているといえよう。

 以上のような問題意識をもとに、今回のシンポジウムでは、特に以下の論点を中心に論議していきたい。

1.論議の焦点の第一は、あくまで「宗教との関連」であること。

 今回掲げたテーマは複雑な問題群であり、民族問題やナショナリズム、国家論などに焦点を当てて検討すべき問題と深く関連してはいる。しかし、それらへの論議に流されることなく、本学会の特徴を生かして、主として「宗教」に焦点を明確にあわせていくことにしたい。

 (1)現代の上記の問題に、いかなる宗教が、いかなる関わりをしているのか。換言すれば、民族主義やナショナリズムの現代的勃興に宗教がいかなる形で関わり、いかなる様相を生み出しているのか。そこに宗教が関係することによって、何を増幅し、刺激しているのか。その今日的諸相を描き出し、把握していきたい。

 (2)今日の問題は、我々の「宗教理解」に、いかなる問題を投げかけているだろうか。従来の宗教社会学の一般的理解では、宗教は近代化過程の進展ともに「個人化」され、その意味において民族集団などの伝統的社会という「特殊性」を超越した「普遍性」を持つようになったといわれる。また伝統社会の共同体性は、その集団の個別の宗教が主に担っていたが、近代社会のそれは世俗的な合理主義的理念がになうはずであった。

 しかし今日の事態は、民族集団の共同体性を宗教が再び担うか、少なくとも強化する働きをしているといえよう。宗教のもつ「共同体性」や「特殊性」に、我々は改めて注目せざるを得ず、宗教の、民族などの個別利害の正当化機能、イデオロギー的機能の顕在化と考えざるをえない。宗教のもつ超越性や超越的機能は何処へいったのだろうか。もしくは、両者の矛盾的共存が宗教の宗教たる性格なのだろうか。それとも、宗教の超越性、超越的機能は啓蒙的理想が夢想した虚構だったのだろうか?

2.第二の焦点は、「日本社会での様相」を明らかにすることである。

 発題者の報告を通して、現在各地で生起している宗教と民族紛争、ナショナリズムの諸相を把握していく意義は、アジア、なかんずく現代日本における同種の問題の様相を明らかにしていくことにあるといえる。これを本シンポジウムの共通の課題としたい。

 (1)日本における宗教とナショナリズムの問題は、近代天皇制とその国体論に基づく日本民族優越論をめぐる諸論議、国家神道と近代ナショナリズム、超国家主義などのテーマとして論じられたほか、国家主義者日蓮のような日本宗教のナショナリスティックな側面の研究や、大本教などの新宗教とナショナリズムとの関係について、主として戦前の日本を対象に盛んに論じられてきた。しかし、戦後の政教分離制度と象徴天皇制のもとでのナショナリズムと宗教に関する論議は必ずしも多くはなく、靖国神社の国家護持をめぐる論争と裁判が注目される程度である。また、一部の新宗教のナショナリスティックな伝統回帰主義的特徴が個別に論じられてきた。戦後日本の宗教とナショナリズムの問題は、制度としての宗教や個別の宗教との関連での問題よりも、むしろ宗教的な機能と性格を有する文化現象に注目していく必要があるのではないだろうか。「日本教」概念や「日本人論」ブームが内包する文化ナショナリズムをめぐる論議がそれである。

 これら従来の日本での論議については、問題提起者がさらに整理して報告する予定であるが、発題者の諸報告を通して現代日本の様相はいかなるものであるか、さらに明らかにしていくことをめざしたい。

 (2)一つの問題提起として、新たなナショナリズムの台頭を今日見ることはできないであろうか。昭和天皇の逝去や皇太子の成婚に際しての日本人、マスコミ、社会全体の反応は、依然として根強い「天皇信仰」「皇室信仰」の新たな表出である。そのほか、日本文化の固有性や、経済大国・日本を支える日本の伝統文化、伝統宗教への賛美など、宗教的色彩をおびた、伝統回帰・復古的イデオロギーの出現が見えかくれする。この様な今日の状況を、より明確に、鋭敏に把握していく必要があるのではないだろうか。

 (3)日本の様相を比較的に理解していく上で、韓国、東南アジア地域の事例は有意義である。これらの地域は歴史的文化的に日本と近いこと、にもかかわらず国家と宗教との 密接な関係が今でも見られ、また近代化と反植民地化の動きを現在同時に経験している。かつての日本による侵略と植民地化、それへの抵抗を経験し、また今日、めざましい経済発展を遂げつつある中で単なる西洋的近代化ではなく、独自の近代化を模索している。これらの社会において、宗教・民族的自立・ナショナリズムの関係は、日本と何処が異なり、何処が類似しているのであろうか。この様な問題関心を持って日本の状況を考えていくことが有益であろう。

発題1 新免光比呂(国立民族学博物館)

「東欧における宗教とナショナリズム  −ボスニア・ヘルツェゴビナの事例を中心として−」

 東欧における宗教とナショナリズムの問題については、ボスニア・ヘルツェゴビナに話題が集中しがちであるが、いずれの国も何らかの問題を抱えているといってよい。もともと複雑な地形と民族移動の通過路にあたっていたせいで多数の民族が混在していたが、かつてのハプスブルグ帝国、オスマン=トルコ帝国などの支配によって、民族と宗教の問題はさらに複雑になった。

 東欧は、東方正教会、カトリック、プロテスタント、イスラームという大宗教集団とスラブ、ゲルマン、マジャール、ルーマニア、アルバニア、トルコなどの民族が入り乱れて、民族と宗教のモザイクをなしている。こうした多様な集団が一つにまとめられたのは、ソ連を中心とした共産主義体制下においてだけであったが、共産主義体制崩壊の後は、伝統的な民族対立が復活した。旧ユーゴスラヴィアは分裂し、ボスニア・ヘルツェゴビナは、セルビアとクロアチア、スロベニアの対立が引き金となってクロアチア人カトリック、セルビア人正教徒、ムスリムの三民族集団(三宗教集団)が血みどろの戦いを繰り広げている。旧チェコスロヴァキアは、チェコとスロヴァキアに分離したが、スロヴァキア国内には約60万人のハンガリー系市民が存在する。ブルガリアでは、およそ百万人といわれるトルコ系少数民族(ムスリム)とブルガリア民族主義者が対立し、ルーマニアのトランシルヴァニアではハンガリー系住民とルーマニア人民族主義者が溝を深めている。旧ユーゴスラヴィアのコソヴォ自治州では、大多数を占めるアルバニア人に対してセルビア政府が強圧的な態度で臨んでおり、それにアルバニア政府は反発している。マケドニアと歴史的に呼称された地域は旧ユーゴスラヴィア、ブルガニア、ギリシャにまたがっていたが、マケドニア共和国の独立によって、セルビア、ブルガリア、ギリシャとの緊張が高まっている。ポーランドも国内に75万人といわれるドイツ人を抱えて微妙な問題が生じている。旧ソ連内の東欧との隣接地域では、モルドヴァ共和国がルーマニアと接近し、そのなかではドニエストル共和国が独立への傾向を示している。ウクライナではウクライナ・カトリックが復活したが、ロシア正教会との対立が激化し、またクリミア共和国が独立しようとしている。この様に民族間の対立とともに宗教間の対立も激化しているのが東欧の現状である。

 今回の発表では、話題の焦点であるボスニア・ヘルツェゴビナにおいて民族的帰属としてのムスリム人が誕生した歴史的経緯とその意味を中心として報告したい。さらに時間の許す範囲で、それに対する対照としてブルガリアのムスリム問題、ルーマニアのトランシルヴァニア問題にも言及することにしよう。ブルガリアのトルコ人は、同じムスリムでもボスニア・ヘルツェゴビナのムスリムとは異なる歴史的経緯と問題点があり、トランシルヴェニアに関しては、ルーマニア人とマジャール人という民族間の対立と正教会とカトリック、プロテスタントという宗教の相違が重なっている典型的な事例として比較することができるだろう。

発題2 杉本良男(南山大学)

「国民国家理念と宗教的ナショナリズム −南・東南アジアにおける問題−」

 南アジアおよび東南アジアにおける,「宗教と民族・ナショナリズム」の問題を考えるときに,第二次大戦後の世界が挙げて近代国民国家理念のもと独立国家体制をとろうとしたことが,一つの焦点となる。これは,アジアにおいて,インド,スリランカ,インドネシアのような旧植民地においても,またタイなどの植民地支配を受けなかった地域においても共通する現象といえる。

 近代国家理念は,ローマを頂点とする中世教権体制を批判し,これを超克しようとした西欧諸国において,土地・知識の所有をめぐる身分制の否定(民主主義),国家内部の均質性(国民国家),政治・国家と宗教・教会との分離(政教分離主義),などのかたちをとって現れた。ここで注目すべきは,西欧においてローマ・カトリック的教権支配への批判として,実質的にはプロテスタント的理念のもとに出現した「政教分離主義」が,アジア諸国などでは,「宗教」そのものの分離ないし否定ととらえられたことである。ここで,宗教と政治との関係が,主にエリート層によって,西欧諸国でよりもさらに厳格にうけとめられたことが問題をさらに複雑にしている要因である。そこには,西欧と非西欧,そしてアジアのエリート指導層と非エリートとの微妙なズレが含まれている。このような,現象的な宗教そのものの政治からの分離と,実質的なプロテスタント的語法による政教分離主義とが,アンチ・テーゼとしての宗教的ナショナリズムを誘発する要因となっていると考えられる。

 一国家一国民を原則とする「国民国家 nation-state 」の理念は,西欧の植民地支配などを背景に世界的に浸透した。このとき,国家形成が主体的に行われた西欧諸国と,程度の差はあれ近代国家理念が外部から持ち込まれたアジアなどでは,根本的に異った帰結を招いている。とくに,国家の領域が植民地支配期における恣意的な線引きを継承した場合,おなじ"nation"ではあっても「国民」と「民族」とのズレが重大な問題を引き起こすことになる。西欧からの圧倒的な力への対抗上結束したさまざまな部分が,ひとたび独立国家の座をかちとると,内部分裂に至った例は枚挙にいとまがない。ここで注意しておくべきは,国民国家のもとで,旧来の民族間の対立が表面化するという単純な図式にはならないことである。それは,現在相争っている「民族」集団などの一体性は,国民国家理念を準拠枠として,西欧の影響を受けながら実体化されてきたものであることがしだいに明らかになってきているからである。

 今一つの焦点は,なぜ,宗教がナショナリズムの根拠とされやすいか,あるいはより根本的には宗教の政治性・暴力性の問題である。周知のように,現在各地で,宗教間対立の皮をかぶった権力闘争が多く見られる。アジアにおいても,インドのアヨーディヤ問題,スリランカの民族間対立などが国家の存立を揺るがすような深刻な事態を招いている。これらは,民族・集団のアイデンティティーの根拠として,あるいはデュルケーム的な意味での「集団表象」として,宗教が最強のものであることを示している。それだけでなく,外部との関係で,自己保存をはかる民族・集団が,宗教を根拠に暴力化する例をみることも多い。宗教と民族・ナショナリズムの問題は,宗教の暴力化が,狂信的な例外的現象なのか,宗教自体が暴力性を持っているのかを考えさせる重大な意義をもっている。

 報告のなかでは,独立後のスリランカにおけるシンハラ仏教徒とタミル・ヒンドゥー教徒の対立の問題を中心にして,インドのアヨーディヤ問題,あるいはタイ仏教王権,インドネシアの「パンチャシーラ」政策など,それぞれ国家成立事情が異なったアジア諸国の例をひきながら,上記の根本的な問題について考える材料を提供したい。

発題3 崔吉城(中部大学)

「韓国の宗教における反日的ナショナリズム」

 日本は単一民族であるといわれているが韓国は日本よりも‘純粋な’単一民族国家である。韓国人は国家より民族という言葉に愛着を持っている。ナショナリティとかナショナリズムということばは馴染まない言葉である。それは日本植民地によって国家(政府)はなくしても民族はなくならなかったという意味を持つものであろう。現在韓国で使われている民族主義の‘民族’は植民地時代の日本帝国の‘臣民’あるいは‘国民’に強いられている中に意識した‘朝鮮民族’という植民地時代の遺産としての意味が強い。それは3・1運動の声明書を発表した人たちが自ら‘民族代表’としたその民族の意味に近い。その残存が在日朝鮮人・韓国人の‘同胞’、中国の‘朝鮮族’という言葉であろう。戦後のナショナリズムは戦前における独立運動などの反植民地・反日的な抵抗を続けてきた単一民族の結束としての植民地遺産の民族主義(‘反日’)と戦後、民族分断による南北異質の国家が成立して対置している国家主義(‘反共’)の民族主義である。これは戦後の国家の基本精神である‘國是’の二大思想である。

 韓国では政府が宗教を保護する態度をとっている。日本の国家神道のように宗教の政治への関与することを極端にタブー視する政教分離政策とは異なっている。これは政治が宗教と強く関わってきた過去を表している。もちろんこれは多くの問題点を含んでいる。政府の公休日制定と‘朝餮祈寿会か保国法会’の援助と社会改革の集会への禁止など宗教政策の混乱と不在もある。その国家と宗教との関係の背景は主に日本植民地時代に求められる。以下キリスト教、儒教、新宗教、巫俗中心に考察してみる。

1.キリスト教

 (1)キリスト教の受容と民族主義

 キリスト教のナショナリズムは戦前と戦後によって異なっている。日本帝国は‘内鮮一体’という同化政策によって植民地朝鮮を支配した。当時の日本政府は韓国のキリスト教指導者と宣教師たちは政治的運動には関わらないようにしてもその宗教性よりは政治性に注目しキリスト教を外敵か政党のようにみて妨害したり信者を逮捕したりした。キリスト教は普遍宗教であり民族宗教ではないが韓国ではキリスト教によって民族主義が高まるようになった。結局弾圧を受けて敗戦直前の1945年7月29日韓国の全てのプロテスタント教会は教派の区別なく日本キリスト教朝鮮教団を組織して親日になったのである。これが戦後‘親日派’‘非親日派’などに分かれる宗派の派閥の種にもなったのである。

 (2)在日韓国人のキリスト教

 キリスト教は普遍宗教でありながら在日朝鮮人のキリスト教は民族宗教的な要素が濃い。在日朝鮮人はI 民族的アイデンティティとJ 日本人による差別から解放されるためにキリスト教をもって強化しようとする傾向が強い。

2.儒教と経済発展

 儒教は韓末に抗日運動で多くの人材を失ってしまったので植民地に反対する力がないといわれたりしたが、それよりも日本政府は儒教の忠孝倫理をもって明治革命を成し遂げたので朝鮮の儒教に対して保護的であった。それで儒学者たちは王様の死亡の際喪服を着る人は多くても反日運動にはほぼ参加しなかったともいう。同様に日本政府は仏教に対しても保護政策をとり、李朝に比べて活力を回復したようであって、日本政府との衝突はなく、知的及び宗教的に独立のために寄与度が一番低かった。最近内外で伝統文化への復帰現象として儒教が注目されており、儒教を中心とした伝統文化への復活が一番著しい。

3.新宗教

 李朝末から日本植民地時代に多く発生した新宗教は‘類似宗教’とも呼ばれたように外来既成高等宗教に似て、教理組織において在来の民間信仰を豊富に取り入れている。例えば巫俗、風水信仰、天地開闢(終末)思想などを入れて民衆にとっては違和感の少ない民族宗教的なものであった。民族宗教として現れている新宗教(天道教、大宗教、圓仏教、甑山教、ハンオル教、正易教など)は韓国自生のものであり、民族共同体意識をもっており、民族固有精神を啓発しようとし、苦難からの解放された民族の栄光を約束することを教理としている。

4.伝統文化と巫俗信仰

 軍事クーデターによる独裁である朴大統領政権は日韓関係正常化により親日的だと非難されても近代化政策をとりながら‘韓国的’なものを尊重する態度をとった。しかし近代化に伝統文化が障害になると考え迷信打破しようとしたが、ナショナリズムへ急旋回して巫俗を重要視するようになった。そして巫俗自体は民族主義を主張する力がなくても政治的に利用されるようになった。

結論

 普遍的なキリスト教が民族主義の強い宗教になり韓国人がキリスト教に対して肯定的な態度になる。それに比して新宗教・新宗教的なものが国境を越えて交流する国際的な傾向がある。ナショナリズムの高潮は復古傾向が著しくなり、これが国内の下位レベルの地域主義などを刺激し、地域感情を強く表出させたりして政治的な問題にもなっている。

発題4 Helen Hardacre(Harvard University)

New Nationalism: Religion and Gender
※ハーデカー氏急病のため代読。