第3回学術大会

日時:1995年6月10日〔土〕〜11日〔日〕
会場:国立民族学博物館
   〒565 大阪府吹田市千里万博公園10-1  電話 06-876-2151


プログラム

6月10日〔土〕

常任委員会 11:00-12:30 第6 セミナー室
受付 12:00-  
研究発表 13:00-16:50 第4 ・第5 セミナー室
総会 17:00-17:50 第5 セミナー室
懇親会 18:00-20:00 民博レストラン

6月11日〔日〕
シンポジウム「情報時代は宗教を変えるか?」
会場:第4 セミナー室
司会:池上良正・中牧弘允

司会挨拶 10:00-10:05
問題提起 10:05-10:20 井上順孝
報告 10:20-11:20 星野英紀・弓山達也
コメント 11:20-11:30 梅津礼司・対馬路人(予定)
討論 11:30-12:15
昼食 12:15-13:15
編集委員会 第1 セミナー室
報告 13:15-14:15 足羽興志子・生駒孝彰
コメント 14:15-14:25 田村克巳・石井研士(予定)
討論 14:25-15:10  
休憩 15:10-15:20  
総合討論 15:20-17:00  

研究発表

A会場(第4セミナー室)

1.熊田一雄(近畿大学)
 「『自然』形而上学と『私極道』―ポストモダン左翼への論理的弔辞」

この発表の目的は、以下の三つである。

(1)1980 年代の日本社会において、文学者や思想家がさまざまな形で表現しようといした「能動的ニヒリズム」の「生活思想」を、「私は私という名の道を極めて私という名の極道になりたい」《私極道》志向として要約する。
(2) 吉本ばななのベストセラー小説『TUGUMI』を、「豊かさの達成と相対主義」の中で「近代の美徳」が風化する時代における「少女の魂の分裂」を形象化した生活思想書として把える視角を示し、学生からとったアンケートによってそれを補強する。
(3) それによって、1980年代に花火のように流行した「ポストモダン左翼」の言説を次の世代の視点から相対化して、「論理的弔辞」とする。日本人の「和合倫理」を否定して「ラディカルな個人主義」を主張する彼らは、「私極道」である限りにおいて、日本人の「自然」形而上学から自由ではないのである。
(場内の爆笑が予想される。)

2.石渡佳美(明治学院大学大学院)
 「PL教団における夫婦のあり方と女性の生き方」

 宗教は家族の変容に対してどのような対応と意味づけを行ってきたのだろうか。また、行おうとしているのだろうか。
 報告では、新宗教の一つであるパーフェクトリバティー教団(略称PL教団)をとりあげ、特に「夫婦」のあり方を強調する教えに着目し、その背景にある問題と教団の意図を考える。PL教団は戦前の「ひとのみち教団」の流れを汲んでおり、同教団の夫婦を重視する教えを受け継いでいる。ひとのみち教団では、夫婦は「家」を支える基本的な単位としてその重要性が説かれた。戦後、「家」の廃止によって、PL教団では「夫婦」を重視する基盤を何に求めたのだろうか。また、社会状況の変化とともに女性の生き方の変化も著しく、教団はこうした状況も受けとめていたと考えられる。特に高度経済成長期に着目し、教団の女性信者への対応に焦点をあて、その言説と活動をみていきたい。

3.樫尾直樹(東京外国語大学)
 「宗教エスニシティと文化変容―パリのMAHIKARIを事例として―」

 本発表では、フランスにおける崇教真光を事例として、異なった文化的背景を持つ宗教の受容の問題について、主としてエスニシティと文化変容の観点から考察を加えたい。日系新宗教運動の海外布教に関する従来の研究では、日本宗教の展開を探るという問題意識から、日系移民社会を主たるフィールドとしてきた。しかし、近年のグローバル化状況の中で、非日系移民社会での活動をも積極的に視野に入れて行く必要に迫られている。
 まず、真光のフランス(およびヨーロッパ・アフリカ)での歴史・活動・組織に関して、簡単に紹介・説明し、次いで信者と道場の特徴を明らかにした上で、手かざしの受容を例としてその選択・接続可能性について考察し、今後の課題を提示したい。本テーマは、アフリカ・カリブの調査の遂行によって一応完成する予定であるので、今回の発表はいわば中間報告と位置付けられる。

4.ロバート・キサラ(南山宗教文化研究所)
 「文明論的平和思想」

 平和思想研究ではたびたび諸文化におけるその思想の特徴が論じられている。たとえば、R.ベイントンの古典的な研究の冒頭にヘブライ文化ではその特徴は繁栄、ギリシヤ文化では秩序、ローマ文化では戦争のない状態と説かれている。ここでは、日本の平和思想の特徴として「文明論的平和思想」が提案されている。この文明論的な平和思想は根本的に個々人の道徳的な修養を平和の基盤と見なすが、時折諸文化の対立的理解が生じ、民族的な優越意識と結びつくこともある。明治維新に先立つ約250 年間の徳川時代には、農村一揆などの内乱がたびたびあったものの、外国との戦争がなかった故に、近世日本の平和思想は外国との戦争よりも国内の治安に関心を置く傾向が強い。戦国時代の絶え間ない内戦に終止符をうち、新体制の下で治安を維持するために作り上げられた「徳川イデオロギー」はその平和思想の基盤となるが、徳川時代後半には、それに国学思想が加えられ、民族主義的な色彩を示しながら、次第に文明を対立的に捉える平和思想が抬頭してくる。新宗教の二つの教団を例として、現代におけるこの文明論的平和思想の展開が探求されている。

B会場(第5セミナー室)

1.粟津賢太(創価大学大学院)
 「国家と始源性」

 国家が何らかの聖性を持っているという指摘は、宗教学や宗教社会学において指摘されている。近代国家であっても、その統合上、文化的要素が介在し、ナショナリズムは宗教的言説で語られる。我々は如何にこの問題を扱いうるのであろうか? また近代の人類学では、イデオロギー装置としての儀礼の問題がすでにブロック(Block,M) などによって指摘されている。本発表は、もとより部分的な試みにならざるをえないが、近代日本の事例をもとに儀礼理論の適用の可能性を検討する。
 日本において、国民国家の形成の過程とは、実際には村落共同体の秩序構造を解体し、再編していった社会変動の過程でもあった。その意味で国家原理は民衆にとって異質なものであった。このような国家原理を民衆が何故受け入れ、その受容のプロセスにおいて儀礼がどのように介在したのかを検討する。

2.李 仁子(京都大学大学院)
 「文化の移築とアイデンティティの生成―大阪在日韓国・朝鮮人の墓の分析から」

 現代においては、いわゆる国際化の流れがさまざまな要因によって強化され、情報の流れのみか、固有の文化を担った人々が新たな異質な文化社会へ移動するという人的移動の流れも、一層強化されているかに思える。単なる情報の移動、文化装置の移動だけなら、それは一種の文化変容の問題として取り上げられるが、固有の文化を担った人の移動の場合、まさに固有の文化と集団的組織を持った人々が新たな文化的社会的環境で生きるということを意味する。文化の担い手である主体が、異なる環境の中での文化の維持という重い課題を担うことになる。単純に文化変容や受容といったことでは済まされない、種々の問題がそこには発生する。しかもそこにはホスト側の移住者への目(先入見)というものも考えられ、異なる文化接触という、いわば平板な接触問題以上の二重三重の反応系というものが考えられねばならない。いや実を言うと、この様な異文化を担う社会相互の接触ということのほうが、異文化の接触というものの最も基本的なありかたではないかとさえ考えられる。これは、文化人類学が避けて通れない重要な問題なのではないか。
 ところでここで取り上げるテーマは、日本に移住した韓国人・朝鮮人の問題であり、具体的にはホストの地に来て彼等がいかに異文化集団の中でマイノリティとして彼等のアイデンティティをマネージしているかが、とりわけ墓のあり方を資料とした一つの事例分析をもって考察される。
 在日韓国・朝鮮人にとっての墓は、死者を埋葬する、先祖を記憶する装置という本来の意味よりも、様々なアイデンティティの表現として解釈できる。このようなながく残る実物を通じた表現は、これから日本で生きていくことが前提とされる人々のアイデンティティの提示の方法ともいえるのではないか。
 この発表は、とりわけ済州道人という韓国・朝鮮人の中で周縁的な立場にある人々を取り上げる。というのも、一つには調査地大阪には済州道人が多いということもあるが、かれらはまさに周辺的存在であるために日本社会というホスト側への対応と同時に、韓国人というゲスト集団の中でさらに自らのアイデンティティを確立するということを必要とする人々ということである。実はこのようなアイデンティティのマネージにおける二重性という問題は、なにも済州道人だけに限らずしばしば移住集団においてつきまとうものと考えられる。その点でこのケーススタディは文化問題の移築として決して特殊な事例とは考えていない。

3.真鍋祐子(筑波大学大学院)
 「韓国の民衆運動における殉教者のモデル」

 学生運動や労働運動に代表される韓国民衆運動においては、ある時期から自殺による犠牲死という闘争手段が選択されるようになっており、特に80年代以降は、焼身という抗議性と演出性を兼ね備えた自殺方法が頻発している。韓国の運動圏では、こうした" 不孝" の死、ないしは非業の死を遂げた死者に対し、儒教祭祀と対抗的な内容をもった儀礼の装置(民主国民葬)を通じた" 烈士" への祀り上げを行っている。
 抗議の自殺が頻発する理由として、第一に死後の自己イメージがこうした儀礼を通じて提供されること、第二に先輩" 烈士" たちの殉教者的イメージが、理念学習の中で絶えず反復され、彼らの思考に、あるルートパラダイムを与えることが考えられる。本報告はこの第二の点について取り上げるものである。つまりある" 烈士" に関し、彼自身の描つ自己イメージ、その死に立ち会った人々によって語られたイメージ、さらに第三者の描くイメージとを比較しつつ、殉教者の形成されるまでを検討してみたい。

4.淵上恭子(南山宗教文化研究所)
 「ペンテコスタリズムにおける〈歌〉と〈踊り〉―韓国キリスト教聖霊運動を中心として」

(本発表については当日レジュメを配布した)

シンポジウム「情報時代は宗教を変えるか?」

司会 池上良正(筑波大学)・中牧弘允(国立民族学博物館)
問題提起者 井上順孝(国学院大学)
発題者 足羽與志子(成城大学)・生駒孝彰(京都文教短期大学)・星野英紀(大正大学)・弓山達也(日本学術振興会)
コメンテーター 石井研士(国学院大学)・梅津礼司(中央学術研究所)・対馬路人(関西学院大学)・吉田憲司(国立民族学博物館)

10:00-10:20 司会挨拶及び問題提起
10:20-12:15 第1セッション
 星野英紀「伝統仏教における情報化の影響―二、三の事例から」
 弓山達也「青年層における宗教情報の伝達について」
 コメント:梅津礼司・対馬路人
 討論
13:15-15:10 第2セッション
 足羽與志子「情報化時代と仏教の新たな方向」
 生駒孝彰「アメリカにおけるテレバンジェリズムの栄光と挫折」
 コメント:石井研士・吉田憲司
 討論
15:20-17:00 総合討論

問題提起 井上順孝

 情報社会、情報化社会、高度情報化社会などの言葉は毎日使われています。この背景には、まず情報メディアの急速な進歩という事実があります。一度に大量の情報が、敏速に、正確に、多方向に、多様な形態で伝えられるといった技術の進歩は、政治、経済、文化など、人間社会のあらゆる面にすさまじい変容を迫りつつあります。
 とりたてて技術の最先端に関わってはいないような人間の日常生活においても、コンピュータ、ワープロ、携帯電話、ポケベルの普及、ビデオソフト、テレビ番組、衛星放送、CATVの多彩化など、情報の種類、メディアが多様になったことは実感できます。そしてこれは、好むと好まざるとにかかわらず、われわれの生活のありようを変化させ、さらには意識をも変化させると考えられます。
 情報化といわれているものの本質は何かを、根本から考えるのは、なかなか容易ではありません。まず情報とは何かという厄介な問いが待ち構えているからです。これは、むろん重要な問題であるにしても、それに時間を費やすことは今回の趣旨ではありません。
誰もが認めている明らかなハード面での技術進歩と、その結果としての日常生活上の情報伝達環境に急激な変化が生じていることを共通の理解とすれば、まずは議論を始めることができるのではないでしょうか。
 情報化は当然宗教のさまざまな場面にも影響を及ぼしています。布教や教化の方法、組織のあり方、そしてなによりも肝心の伝えるべき宗教情報が、再考を迫られるでしょう。しかしながら、情報化と呼ばれる現象は社会のあらゆる場面に生じているため、宗教問題においても、何が情報化のもたらすもっとも中心的問題なのか、あるいは付随的問題なのかは論じるのがきわめて困難です。それを解きほぐす作業が必要になります。これに立ち向かおうというのが、今回のシンポジウムの眼目であります。
 さて、情報時代と宗教との関わりは多岐にわたるとはいえ、いくつかの基本的な視点を提起しておくことが、議論を進めるに当たって必要と思われます。そこで、以下の4点を議論の手がかりの候補として、指摘しておきたいと思います。
(1)布教・教化の手段の変化
 これはもっとも顕著であり、かつ情報化のもっとも直接的影響と言えるでしょう。布教や教化の形態は、新宗教をはじめ、一部の教団ではどんどん新しいものが出現しています。通信衛星を使った布教方法、儀式・行事や説教の場面のビデオソフト化などは、もうかなり流布した例となります。
(2)相互影響のスピードアップ
 他の宗教運動、宗教教団についての情報も得られやすくなっているので、宗教間の意識的及び無意識的相互影響が、きわめて短期間に、かつ多様なベクトルをもって進行するようになっています。広告代理店を使った布教方法をすぐとりいれるとか、ニューエイジ用語が多くの運動で共有されるとかいった現象はその例です。
(3)国際化・グローバル化の進行
 情報伝達が容易になり、異文化情報に接する機会も増えたので、文化の枠を越えた宗教運動の急展開がしばしば見られるようになっています。人の数より、情報量によって、それが推進される場面が増えると思われます。サイババの日本におけるブームなども、その例と考えられます。
(4)秘儀の喪失
 教祖、聖者、儀礼、修行など、情報を遮断することによって神秘性を維持してきたようなものは、情報の遮断がきわめて難しくなってきたので、その神秘性や秘儀性などが維持されにくくなってきました。伝統的で厳粛な儀礼が、テレビカメラの侵入でイベント化するのはその良い例です。
 以上は、情報時代がすでに宗教に影響を与えていると思われる主な例です。これ以外にも、生じつつある数多くの場面を指摘できます。しかし、こうした変化を現象面で指摘していくことは、比較的容易でありますが、それが宗教本来の存在意義(これも議論があるところですが)にどのような課題をつきつけているかは、はるかに重要な問題であります。情報時代ゆえに生じていると思われる変化が、宗教の歴史にとっては表面的なものに過ぎないのか、かなり中核部分に迫るものなのかは、もっとも議論が必要な部分です。さらに、一見情報化の影響のように見えて実は別の要因のほうがより重要であるという局面も指摘されるかもしれません。
 以上述べましたように、このシンポジウムは、情報時代が宗教に何をつきつけているかという観点から、問題発見、視点発見ということを大きな目標にしたいと考えています。それは当然現代社会における宗教という問題の一環をなすものであり、この学会で、活発に議論すべきテーマと考えております。
 情報化はむろん世界中で激しく進行していますが、当然その様相は国や社会によって異なります。問題があまりに多岐にわたるのを防ぐ意味で、今回のシンポジウムでは、議論の対象地域を一応、東アジア、東南アジア、北米に限ることにします。ただし、必要に応じて他の地域の事例の検討を拒むものではありません。われわれの意識や行動のあり方に突き付けられている現代的課題の1つとして、今回のテーマを議論できれば、面白いのではないでしょうか。

発題1.星野英紀「伝統仏教における情報化の影響―二、三の事例から」

 ここでいう伝統仏教とは、日本の既成仏教のことである。既成仏教界の動きを過去10間に遡り回想してみると、ひとつの顕著な動きとして、各宗団がその傘下にある各種研究所部門を統廃合して新たな研究所を開設していることである。そして、この流れは今後もしばらく続くことになりそうである。
 具体的にその動きを見てみよう。真言宗智山派では1987(昭和62)年に智山伝法院が発足した。浄土宗では1989(平成元)年に総合研究所が発足した。真言宗豊山派では本年4月より教化センタ−を発足した。最大宗派のひとつであるS宗でも来年度をめどに同様の改革を開始するとのことである。
 これらの統廃合運動に基本的に共通していることは、従来からの教学、教化(布教)、法儀法式などの研究部門を「発展的に解消」して、より統合的な研究組織に改組することである。
 こうした各宗団の動きを促した背景には、従来のような教学、布教、法儀法式と分割された形での研究組織では、現代の諸問題には適切に対応できないという認識が、多少とも、宗団上層部にあったからである。
 たとえば、傘下寺院7000有余を擁する浄土宗では、総合研究所発足時の宗務総長の言葉に、当研究所は「本宗教化のあり方を21世紀にむかって、地球的視野のもとに確立し、現代の高度情報化社会におけるダイナミックな社会機構の変革に対応する」必要のためであり、「高齢化・情報化・国際化社会に対し、宗祖法然上人の教えを基調とする伝統教学の今日的開顕」を切望するとある。
 研究所改組に関わる各宗派の認識は、大体上記の浄土宗のそれと共通したものがある。それゆえ、各宗団では70年代以降に急激に展開していった情報化、国際化の流れを研究所の再編という形で、具体的に受け止めていたともいえる。ただし、研究所は、たとえそれが布教、法儀法式であろうとも、あくまでも研究組織であり、いわゆる布教、教化を実質的に展開するのは、宗団の教化部、伝道部、布教部といった部門である。研究所の意図と成果が、布教の最前線の組織、ひいては個々の僧侶、教師まで、円滑かつ敏速に伝達され加えて有機的に連携しているかどうかは、別の大きな問題である。
 では、情報化あるいは国際化という点で、伝統仏教教団は具体的にどのような活動をしているのか、そしてそれは教団そのものにどのような影響を与えているのか。
 布教・教化の手段としては、ビデオ、CDあるいは経典のCD・ROM化、宗団ごとのパソコン・ネットの開始などは始まっている。
 また、仏教徒同志の国際的連帯はかねてより世界仏教徒連盟(WFB)を通じて行われていたが、日本の経済的地位が向上するにつれ、南アジア、東南アジア諸国の、特に難民救済にかかわるボランティア活動なども、グローバル化の現れといえるであろう。あるいは末期ガン患者へのケアを主たる目的としたビハーラ運動なども、背景に情報化時代があることは間違いない。
 こうした情報化が伝統仏教宗団にいかなる根本的影響を与えているか、あるいは将来それはその影響が深化されるかということについては、より慎重に考えてみたい。

発題2.弓山達也「青年層における宗教情報の伝達について」

 本報告では高校生・専門学校生・大学生を主な対象にアンケートを実施し、青年層の宗教情報源やその伝達方法を検討する。そして非教団的な情報(とくにおまじない)に関して10代女性の間で大きな影響力をもつことが確認された月刊誌『マイバースデイ』(1979年4月創刊、公称40万部)を例に、宗教情報におけるマス・コニュニケーションとパーソナル・コミュニケーション(口コミ)との関わりを探ってみたい。
 ところで、4月末現在、1週間に約50時間あるワイドショー枠のうちほぼ9割(『ブロードキャスター』調べ)を独占して、まだ68パーセント(約13万人が一斉に電話で回答、『モーニングアイ』調べ)の視聴者が「オウム報道を見たい」という、一連のオウム真理教報道は、情報化社会における宗教とマスメディアとの関係を問ううえで極めて興味深い。出家主義をとりながらも通信教育やビジュアル誌を駆使して、時には既存のマスメディアを利用しつつ布教を展開してきたこの教団は、まさに情報化社会の申し子であった。そのオウム真理教が、司直の判断を待たずに、マスメディアの力によって社会的に葬り去られようとしているのは皮肉なことである。オウム報道による受け手の態度の変化は、今回実施したアンケートからもうかがえる。
 もっともこうした隔離型の新宗教運動よりも、幸福の科学に代表される個人参加型の運動の方が、情報化の影響は指摘しやすい。島薗進氏が「情報化と宗教」(『思想』817 )でいうように新宗教運動のみならず、呪術=宗教的大衆文化や新霊性運動といった、いわゆる宗教ブームには情報化の影響が顕著である。情報化にともなう持続的人間関係の薄まりが宗教の変容と並行して進行した、もっといえば情報化が宗教の変容を促したということであろう。
 だが、宗教ブームを年齢的に底辺で支えるティーンエージャーたちの世界は、いまだパーソナル・コミュニケーション(口コミ)が支配的である。彼女(彼)らに特有な「おまじない」の流通は口コミが中心である。そしてその口コミを吸い上げ、標準化して広範に流布させる機能を、先の『マイバースデイ』に代表される媒体が担っている。それは「学校の怪談」や「開かずの扉」、さらには「口裂け女」や「人面犬」といった都市伝説と似たような情報伝達をもっているといえよう。そこまで話を広げないにしても、本報告ではいくつか事例を示しながら宗教情報の伝達の特徴について考えてみたい。

3.足羽與志子「情報化時代と仏教の新たな方向」

 情報化時代における宗教のありかたを考える場合、ここでは暫定的に「情報」を次のような広義の意味でとらえる。つまり、「情報」とは、あらゆる種類のフロー(流れ)、そしてそれが搬出する内容及びそれが描く景観をさす。A. アッパドゥライはフローに、金融、人間、技術、メディア、イデオロギーの5つの分類をし、現代はその種類、量、速度、領域において、どの時代よりも比較にならないほどの高い値を示すという。
 それでは具体的にアジアの仏教に何が起きているのか。1989年から調査を始めた中国南部のある仏教寺院についての報告を行いたい。この寺は、情報を仏教活動に巧みにとりこんだ例、つまり寺が国内と海外を繋ぐ数種類のフローの中継点となることで、共産党中央権力の過度の支配を防ぎ、寺の速やかな自立復興をはかった例である。
 経済解放と前後して始まった中国の宗教解放には、「宗教」を経済発展の刺激のための重要な鍵の一つとしたいという党政府の明確な意図があった。この寺のある福建省厦門市も経済解放特別区に指定され、寺の復興には政府も当初から協力的ではあった。しかし自立を守る寺は独自の運営を行い国内でも際立った繁栄を導いた。上記のフローの分類に則してその原因の幾つかをあげると次のようになる。まず、周辺の経済復興が進むと同時に華僑の檀家の布施、観光、儀礼などによる現金収入が大量にあること。信者や僧侶が寺を通じて常時、国内と国外を頻繁に循環していること。海外出稼ぎ、海外からの巡礼、里帰り華僑のほか、海外需要に答える若い僧侶の仲介も行い、中央の官僚、学者等の頻繁な往来も顕著である。さらに国内及び台湾、香港、北米等の一般信者への教典要集、定期刊行物の印刷と配布。その他、儀礼の海外出張サービス、禅堂の建立と解放、社会慈善事業のための宗教法人化、寺が催す祭礼なども、フローに拍車を掛けている。
 このフローと仏教の活性化が密接な関係にあるという中国仏教復興は、アジアの各地の仏教の動きにも共通した特徴といえよう。それでははたしてこの情報化によって仏教が変わっているのか?中国の現状だけでは断定は出来ないが、多地域の仏教状況を見たとき気がつくのは、その一部に次のような動きがあることである。
(1)「世俗から離脱を旨とする」仏教のなかに環境や貧困、開発といった社会問題に対する関心が深まり、いわゆる「エンゲージド仏教」が生まれつつある。それは特定の権力者だけを仏教擁護者とするのではなく、社会的関心が高く体制を批判できる知識階級と社会問題の直接の被害者である大衆、また欧米知識人の支持を受ける。
(2)「伝統」仏教に留まる。しかし、現世における人間の救済、輪廻と解脱についてなど、教義の新たな解釈を試みつつある。

(3)信者が参加するメディテーションとリトゥリート、社会事業が仏教活動の軸に成りつつある。

(4)国家体制と仏教の関係、経済体制と仏教の関係、仏教における聖と俗(僧侶と信者の役割)、女性の位置、「性」の問題などの仏教の根本的問題の再検討が迫られている。
(5)アジアや欧米を領域にした複数の仏教ネットワークが教派や宗派を越えてできている。このネットワークをつうじて国外追放にあった僧侶などから普遍的なメッセージが世界と地域に伝わる。
 今後のアジアのいっそうの経済発展が予測されるなか、世界システムにのった「情報化」時代の仏教が、アジア独自の、かつ普遍性のある仏教へと新しい展開をみせるのではないかと注目される。

4.生駒孝彰:アメリカにおけるテレバンジェリストの栄光と挫折

 テレビを伝道の武器とする伝道師たちの活躍がアメリカで注目されはじめたのは、1970年代の後半である。それは、一種の社会現象と見なされるほどで、宗教的ジャーナルからpLAYBOY 誌までその動向を紹介するほどであった。90年代になって、その数はかなり少なくなってはいるものの、テレビが伝道上の有力な手段として使われている。
 テレビによる宗教放送は50年代から行なわれていた。だが、番組のほとんどがプロテスタントの主流派の教派、カトリック教会、ユダヤ教の番組で占められていた。しかし、70年代になると特定の教派や宗派に属さない個人の伝道師による番組が急速に増えていった(表1参照)。
 彼らの番組には次のような特徴が見られる。(1)プロテスタントの保守派の教義を説く、(2)異言や癒しを強調する、(3)社会や政治問題について言及する、等々。70年代後半から80年代前半の最盛期には100名以上の伝道師がいたが、全米にその名が知られていたのは、パット・ロバートソン、ジェリー・ファルウェル、ロバート・シュラー、オラル・ロバーツ、ジム・ベーカー、ジミー・スワガート等である。
 伝道師たちの視聴者数、収入(主に献金)、等については多くの報告がなされているが、伝道本部、調査機関、研究者によって大きな違いがあり、どの数字が信頼できる、と断言するのは不可能である。ちなみに、85年、ニュールセン社による報告を参考までに紹介しておく(表2参照)。
 80年代後半になると、テレビ伝道師たちの活躍にもかなり陰りが出てきた。彼らをとりまく情勢が変わったからであるが、その直接の原因となったのは一部の伝道師たちのセックスと金にまつわるスキャンダルによってであった。伝道師たちに対し厳しい批判が寄せられたのである。
 90年代の現在、一時のように多くはないし、勢いもなくなってはいるものの、安定した伝道を行なっている伝道師もいる。また、既成の教派や宗派でもテレビによる伝道に力を入れるようになってきた。

(表1)

71年 75年 79年 81年
テレビ伝道師 41.7% 75% 83.3% 83.3%
保守派の教派 25% 16.7% 8.3% 8.3%
カトリック 16.7% 8.3% 8.3%
自由主義的教派 8.3% 8.3%

(表2)

順位 伝道師名・番組名 放映形態 視聴世帯数
パット・ロバートソン「700クラブ」 毎日 12,000,000
ジミー・スワガート 週1回 9,254,000
ロバート・シュラー 週1回 7,461,000
ジム・ベーカー 毎日 5,773,000
オラル・ロバーツ 週1回 5,773,000
ジェリー・ファルウェル 週1回 5,603,000
ケネス・コープランド 週1回 4,924,000
ジミー・スワガート(上記とは別番組) 週1回 4,508,000
リチャード・デーハン「発見の日」 週1回 4,075,000
10 レックス・ハンバード 週1回 3,736,000