井上順孝・大塚和夫編 『ファンダメンタリズムとは何か』

井上順孝・大塚和夫編 『ファンダメンタリズムとは何か』

新曜社、1994年、1,900円 (本体価格)。

【目次】
* まえがき (井上順孝)
* [第1部]ファンダメンタリズムとは何か

 ・アメリカのファンダメンタリズム (森孝一)
 ・ヒンドゥー・ファンダメンタリズム (田中雅一)
 ・シンガポールの潜在的ファンダメンタリズム (熊田一雄)
 ・ファンダメンタリズムとイスラーム (大塚和夫)
 ・禁欲的ガンバリズムの行く末 (大村英昭)

* [第2部] (討議) ファンダメンタリズムへの視点
 ・基本的な問題
 ・自由討議

コラムから (冒頭部引用)

ファンダメンタリズムのアイデンティティー戦略 (島薗進)

アメリカ合衆国カリフォルニア州ベイ・エリア (サンフランシスコ湾岸地域) に一年間(一九八四−五年)滞在したことがあり、その折できるだけいろんな種類の宗教的集会を見たいと思い、集会行脚を試みた。その折の見聞を二、三あげよう。大都市のあるモスクは黒人が圧倒的多数で、アフリカ的な衣服を身につけた人も多い。もっともそのモスクはブラック・ムスリムの系統に属するのだから、当然といえば当然。…

アジアの宗教的ファンダメンタリズム (杉本良男)

このシンポジウムに参加して、宗教的ファンダメンタリズムがアメリカとイスラーム圏という、まさに湾岸戦争の当事者間で大きな問題となっていることにまず興味をひかれた。加えて「ファンダメンタリズム」を比較概念・分析概念として用いることの難しさも認識させられた。各地域の研究者が、まず議論の出発点そのものを模索しているように見えたのはその現われであろう。とくに比較研究を行なう際につねに日本の事例の説明が難しいというのが皮肉な現状である。…

ウンマの概念とファンダメンタリズム (小田淑子)

ウンマの歴史的変遷

ウンマは一般にイスラーム共同体を意味するが、一度も制度化されていない。そのため、その歴史的実体は捉えにくい。またその概念にはイスラームの理念がこめられているが、それがイスラーム史を通じて常に同一だったとは言えない。ウンマは、宗教共同体として、不思議な魅力を備えた概念でもある。ここではウンマの問題に焦点をあてて、現在のファンダメンタリスムが主張する宗教と政治の統合の理念に内包された問題点を考えてみたい。…

チャーチ・セクト・デノミネーション (井上順孝)

ファンダメンタリズムという用語が、宗教社会学などで今後どのように定着するのかはまだ不確定だが、チャーチ・セクト・デノミネーションという用語は、すでに学術用語として一応定着している。しかしながら、それぞれの語が、日常的にも使われているので、宗教社会学における意味との間でときどき混乱がおきて厄介である。…

ファンダメンタリズムと経済 (中牧弘允)

狭義のキリスト教ファンダメンタリズムは自由主義神学への反動としてアメリカに登場した。聖書の無謬を信じ、キリスト教による救済の唯一絶対性を主張し、「二度目の誕生」を救霊の目標にすえている。福音派とも重なり、バイブル・ベルトとよばれる南部から中西部にかけての地域に多くの信奉者がいる。しかし、「黒人」は周縁にあり、「白人」中心の保守的なアメリカ精神の体現者が主力である。…

神道ファンダメンタリズム妄想 (阪本是丸)

参道を歩きながら、神道についてかう考へた。無智に働けば腹が立つ。無情に棹させば泣かされる。理知を通せば窮屈だ。兎角に神道は御しにくい。御しにくさが高じると、原理へ回帰したくなる。どこにも回帰すべき原理はないと悟つた時、神道非宗教論が生まれて、国家神道が出来る。神道を形成したものは仏教者でもなければ儒者でもない。ましてや神道家としてのアイデンティティを自覚的に抱いた人々でもない。矢張り向かう三軒両隣りに普通に生きてゐる唯の人である。…

本書刊行の経緯―あとがきから

本書は、「宗教と社会」学会の第一回学術大会の際に行われたシンポジウム (注 もともとのタイトルは「“ファンダメンタリズム”への視点」) をもとにして編集したものである。大会は一九九三年六月二十六、七日の二日にわたったが、初日は設立総会に続いて四人の研究発表があり、二日目は終日このシンポジウムに当てられた。三人の発題者、二人のコメンテーター、二人の司会者と、壇上にあがった人も多かったが、参加者も百数十人にのぼり、大変熱気のこもったシンポジウムであった。その記録をもとに、発題とコメントの部分は、独立した章とすることにし、それぞれの発題者・コメンテーターに発表内容にかなりの修正を加えてもらった。討議の部分は質疑応答の雰囲気をなるべくそのまま残すようにした。また討議で十分尽くせなかった部分を補う意味で、五人の方にコラムを別途依頼し本書に加えた。

同学会は約一年余の準備ののち設立された。その名が示す通り、宗教と社会の関わりについて、いろいろな観点から研究をすすめようとする人々からなる学会である。この学会には、一九七五年〜九〇年まで続いた宗教社会学研究会 (略称宗社研) のメンバーが数多く参加しているが、新たなコンセプトによって発足したものである。すなわち、発足当時は若手研究者の集まりであり、自由闊達な議論が交わされていた宗社研のよい面は参考とし、さらに多岐にわたる活動を目指して結成された学会である。人によっては、自ら葬式 (解散シンポジウム) をやって解散した宗社研の「蘇り」と捉える向きもあるようだし、解散そのものが偽装であったなどという声すら聞かれたことがある。しかし、そんな手の込んだことをやる必要は、さらさらなかったことだけは言っておきたい。

本学会は、今日の研究者集団に必要とされるものを模索する、パイオニアの精神が中心になって結成されたと感じている。あるべき学会の姿をときに過激に求めるとするなら、一種の「ファンダメンタリスト」の集まりのようなものかもしれない。ファンダメンタリストは言い過ぎとしても、これが学界に何らかのインパクトをもつ組織となるか、ありきたりの学会となるか、あるいは単に烏合の衆となるか、それは結果によって判断される運命である。

さて、本会の会員は宗教学、社会学、人類学、民族学、民俗学、歴史学、心理学、精神医学など幅広い学問分野にわたっている。教学研究者やジャーナリストも準会員として加わっており、現実の動向から目を離さないことをモットーとしている。研究発表だけでなく、会員相互でじっくりと討論する時間をもうけようという趣旨から、約六時間にわたる長丁場のシンポジウムが企画された。討議の時間がたっぷりあったので、さまざまな立場からの多くの参加者から意見が出され、興味深い内容となった。機会があればまた別の形で、ここで討議された問題をさらに細かく展開していければと考えている。

シンポジウムの企画は本学会の設立準備委員によりなされ、本書の編集は学会常任委員のうちの井上と大塚が担当となった。原稿への加筆訂正、もしくは新規原稿を依頼した発題者、コメンテーター、コラム執筆者、発言者の方々には、いずれも快く要請に応じていただいた。脚注は編集委員が作成したが、国学院大学日本文化研究所の永井美紀子さんに協力願った。また、面倒なテープ起こしと原稿のワープロ入力には、日本女子大学人間社会学部の荒井智子さん、新井真麻子さん、田口めぐみさんにお手伝いいただいた。本書は、これらの方々のご協力の賜物であり、ここで感謝の言葉を申し述べたい。また発言はされずとも、当日のシンポジウムに熱心に参加された会員の方々も、本書にとっては、「声なき支援者」であると感じている。

最後にこの企画に関心を示して頂き、刊行を引き受けていただいた新曜社の渦岡謙一さんに、篤くお礼を申し上げたい。 井上順孝