中野毅・飯田剛史・山中弘編『宗教とナショナリズム』

中野毅・飯田剛史・山中弘編『宗教とナショナリズム』

世界思想社、1997年、2300円 (本体価格)

【目次】
序 宗教・民族・ナショナリズム (中野毅)
I 海外における宗教とナショナリズム

1. 東欧における宗教とナショナリズム (新免光比呂)
2. イギリスにおける宗教と国家的アイデンティティ (山中弘)
3. アメリカにおける第二期宗教右翼の政治参加 (上坂昇)
4. 反カルト運動とアメリカ・ナショナリズム (中野毅)
5. 南・東南アジアの宗教と民族・ナショナリズム (杉本良男)
6. 韓国の宗教と民族・ナショナリズム (崔吉城)

II 日本における宗教とナショナリズム

1. 在日コリアンの祭りと「民族」 (飯田剛史)
2. 近代日本のナショナリズムと天皇制 (粟津賢太)
3. 現代日本の反世俗主義とナショナリズム (島薗進)
4. 現代日本の文化ナショナリズム (吉野耕作)
5. 文化ナショナリズムと宗教運動 (宮永國子)

あとがき

本書の意図と構成 (「序」から一部抜粋)

本書は、現代世界の新たな秩序の模索と、他方で宗教の復権という状況の中で、「宗教とナショナリズム」の新たな結合関係に焦点を当て、宗教、民族、ナショナリズムの諸概念を整理しながら、近年の宗教とナショナリズムの結合の諸形態、諸位相、そして新しい特徴を明らかにしていくことをめざして編集された。

しかしながら、このテーマはきわめて複雑な問題群であり、民族問題や政治的ナショナリズム、さらには国家論などに焦点を当てて検討すべき問題と深く関連している。そのすべての位相をここで網羅することは不可能なので、本書では主として以下の諸点に焦点を合わせて論じていきたい。

(A) 「宗教との関連」を議論の焦点とする。

(1) 現代の上記の問題に、いかなる宗教が、いかなる関わり方をしているのか。換言すれば、民族主義やナショナリズムの現代的勃興に宗教がいかなる形で関わり、いかなる様相を生み出しているのか。そこに宗教が関係することによって、何を増幅し、刺激しているのか。その今日的諸相を把握し、描き出していく。

(2) 今日の問題は、われわれの「宗教理解」にいかなる問題を投げかけているだろうか。従来の宗教社会学の一般的理解では、宗教は近代化過程の進展とともに「個人化」され、その意味において民族集団などの伝統的社会という「特殊性」を超越した「普遍性」をもつようになったといわれる。また伝統社会の共同体性は、その集団の個別の宗教が主に担っていたが、近代社会のそれは世俗的な合理主義的理念が担うはずであった。

しかし今日の事態は、民族集団の共同体性を宗教が再び担うか、少なくとも強化する働きをしているといえよう。宗教のもつ「共同体性」や「特殊性」に、つまり民族集団その他の固有のアイデンティティを強化する働き、他の集団との差異を強調する差異化機能、個別利害を正当化するイデオロギー化機能の顕在化に、われわれはあらためて注目せざるをえない。宗教のもつ超越性、これらの個別性を超克する働きはもはや機能しないのだろうか。もしくは、両者の矛盾的共存が宗教の宗教たる性格なのだろうか。それとも、宗教の超越性、超越的機能は啓蒙的理想が夢想した虚構だったのだろうか。

(B) 「日本社会での様相」を明らかにすることを、第二の焦点とする。

現在各地で生起している宗教と民族紛争、ナショナリズムの諸相を把握していく意義は、アジア、なかんずく現代日本における同種の問題の様相を明らかにしていくことにあるといえる。

(1) 日本における宗教とナショナリズムの問題は、近代天皇制とその国体論に基づく日本民族優越論をめぐる諸論議、国家神道と近代ナショナリズム、超国家主義などのテーマとして論じられたほか、国家主義者日蓮のような日本宗教のナショナリスティックな側面の研究や、大本教などの新宗教とナショナリズムとの関係について、主として戦前の日本を対象に、盛んに論じられてきた。しかし、戦後の政教分離制度と象徴天皇制のもとでのナショナリズムと宗教に関する論議は必ずしも多くはなく、靖国神社の国家護持をめぐる論争と裁判が注目される程度である。また、一部の新宗教のナショナリスティックな伝統回帰主義的特徴が個別に論じられてきた。戦後日本の宗教とナショナリズムの問題は、制度としての宗教や個別の宗教との関連での問題よりも、むしろ宗教的な機能と性格を有する文化現象に注目していく必要があるのではないだろうか。「日本教」概念や「日本人論」ブームが内包する「文化ナショナリズム」をめぐる論議がそれである。

(2) 一つの問題提起として、新たなナショナリズムの台頭を今日見ることはできないであろうか。昭和天皇の逝去や皇太子の成婚に際しての日本人、マスコミ、社会全体の反応は、依然として根強い「天皇信仰」、「皇室信仰」の新たな表出である。そのほか、日本文化の固有性や、伝統回帰・復古的イデオロギーの出現が見えかくれする。このような今日の状況を、より明確に、鋭敏に把握していく必要があるのではないだろうか。

(3) 日本の様相を比較しながら理解していくうえで、韓国、東南アジア地域の事例は有意義である。これらの地域は歴史的・文化的に日本と近いこと、にもかかわらず国家と宗教との密接な関係が今でも見られ、また近代化と反植民地化の動きを現在同時に経験している。かつての日本による侵略と植民地化、それへの抵抗を経験し、また今日めざましい経済発展を遂げつつある中で、単なる西洋的近代化ではなく、独自の近代化を模索している。これらの社会において、宗教―民族的自立―ナショナリズムの関係は、日本の場合とどこが異なり、どこが類似しているのだろうか。このような問題関心をもって日本の状況を考えていくことが、今日有益であろうし、むしろ必要であると考える。

このような意図のもとに本書は編集され、第I部では、海外における宗教と民族、ナショナリズムの問題がどのような形態で表出しているかが、いくつかの事例を通して検討されている。イスラームの場合など重要な事例を収録できなかったことは残念である。第II部では、主として現代日本の「ナショナリズム」現象に焦点を当てた諸論考を集めている。

本書刊行の経緯

本書の内容の一部は、一九九四年六月十九日、大正大学で開催された第二回「宗教と社会」学会でのシンポジウム「宗教と民族・ナショナリズム」をベースにしている。このシンポジウムでは、まず、企画した主催者側を代表して中野毅による問題提起があり、それを受けて以下の報告が行われた。新免光比呂氏「東欧における宗教とナショナリズム−ボスニア・ヘルツェゴビナの事例を中心にして」、崔吉城氏「韓国の宗教における反日ナショナリズム」、杉本良男氏「国民国家理念と宗教的ナショナリズム―南・東南アジアにおける問題」、ヘレン・ハーデカ氏「「ジェンダー」と「新ナショナリズム」」。

この時に発表された方々は、ハーデカ氏を除けば、本書でも執筆されており、本書はこの点で、このシンポジウムの内容を伝えるという性格をもっている。しかし、本書は単にそれらをまとめただけのものではない。このテーマの今日的な意義と個々の意欲的で充実した報告を生かしながら、このシンポジウムを基礎に、新しい形で編集を企画し、一書として刊行したものである。したがって本書は、以前のシンポジウムを踏まえながらも、新しい執筆者を迎えて、テーマをさらに深めたまったく新しい成果といえる。

シンポジウムでの論議が不満足なものに終わったことも、新しい内容で本書を刊行したきっかけとなった。それは、われわれ自身の学問的視点や論議の方法をあらためて反省させる機会になったからである。それは次の諸点にまとめられよう。まず、運営側の力量不足もあって、個々の地域に関する専門的報告を、全体テーマと関連させながら、宗教を主題にした一般的論議へと討議を適切に導いていくことができなかった点である。

しかし、もっと大きな原因の一つは、従来、これらのテーマの発想自体が政治学や社会学の視点に強く規定されており、宗教を主題にして語ることが難しかったということにあるように思われれる。つまり、宗教学に代表される宗教研究を専門とする学問分野において、宗教が引き起こしているさまざまな紛争や対立を政治学や社会学、さらには国際関係論などの理論的視点以外で理解するための、宗教研究独自の概念枠組みが十分に用意されていなかったことである。また、最近のわれわれの研究の多くが、個々の新宗教運動の研究に集中しており、それらの運動を総合的にとらえて全体社会の文化的・政治的・社会的動向との関連性を把握するマクロな視点が乏しい点や、関連領域の理論との関連性を十分に検討していない点にも、ナショナリズムやさらにはグローバリズムなどの現代のマクロな諸問題との接合がうまくできなかった原因があると思われる。

このような反省の上に、新たな企画が立てられ、本書が誕生した。反省点がまだ十分に生かされているわけではないが、テーマの追求がシンポジウムの段階よりも大いに進んだと自負している。読者諸氏のご判断を仰ぐ次第である。

中野 毅 飯田剛史 山中 弘